IMA コラム
新作品集 “編集中”
設計事務所の顔は「作品集」。2004年から5年ぶりの大改訂です。
今回は60年記念誌を出した後なので、建物の分野ごとに最新作とアーカイブを織り交ぜて編集しました。全体テーマは 「建築に未来 都市に歴史」。 作り続けてきた作品が、街の歴史を刻み続けている様子を表しました。この編集記を「一句」に託してご披露します。
K君が覗いた建築(現場見学会)
弊社では設計監理した建物が竣工した時には、可能な限り社内見学会を行っています。
先日竣工したオフィスビルでも施主のご厚意により現場見学会を行いました。
多くの参加者の中には昨年入社したK君もいました。今回はそのK君に直撃インタビューしました。
K君は工事中にも一度現地を訪れて現場を見学しています。そのために工事の状況を幾分理解している様子でした。
IMアーカイブ(1995年編)
「IMアーカイブ」と名付けて入江三宅のこれまでを振り返ってみたいと思います。 今回は1977年(昭和52年)に入社したU部長にインタビューしました。
Q1:入社以来、最も印象に残った出来事は何でしょうか。
1995年1月14日阪神淡路大震災の際、私が担当し、同期のO部長が構造設計した神戸三宮の大規模事務所ビルがその震源地にあったことです。その日の早朝、自宅で軽い揺れを感じ(高層マンションに住んでいたので)、急いでテレビをつけたもののテロップばかり。現地の状況がわからぬまま、当時現場を担当していたお台場に出社しました。阪神方面との連絡がとれず、被災状況もわからずやきもきしていました。2,3日して、テレビに大阪方面の臨時バスの発着所として放映されたとき、背後に映った建物が私たちが設計したビル。そのビルの無事な姿を確認したときは思わず涙が出ました。
よみがえる「センプラ」
昨年、超高層プロジェクトを担当している一員として、当社設計の「CHIBA CENTRAL TOWER」の免震装置の社内見学・研修会に参加しました。
計画敷地は千葉市の中心部に位置し、百貨店「奈良屋」として開業したのが1950年、その後セントラルプラザ(通称センプラ)として、多くのテナント、屋上の遊戯施設とともに買い物客で賑わい市民に愛されてきました。2001年10月に閉鎖されて以来、付近の人通りも減少し、壁の落書きも絶えず、中心市街地空洞化のシンボルとさえ言われてきたそうです。
現場周辺は近隣の再開発の完成により少しずつ元気を取り戻しつつある雰囲気でしたが、この計画にも街の活性化を後押しするように、低層部分に商業施設や緑豊かな広場が計画されているとの説明を受けました。広場の名も「セントラルパーク」といい、往時の「センプラ」同様に、当時の賑わいをもたらせる場として千葉市民に愛され続けて欲しいと思っています。
-二三八-
「ル・コルビジェ展」によせて
現在六本木ヒルズ森タワーの最上階の美術館で「ル・コルビジェ展」が開催されています。彼は1887年スイスのラ・ショー・ド・フォンに生を受け、今年で120年を迎えそれを記念しての開催です。先日この展覧会を訪れユニテ・ダビタシオンの住戸実大模型などを体験できましたが、たまたま一昨年マルセイユのこの建物を訪れたのでその印象とともに紹介します。
マルセイユの旧港から東へ車で30分ほど走らせると、木々に囲まれて白亜の高層住宅が見えてきます。遠くから白く見えたその姿は、近づくにつれてその壁面内側が様々な色で彩られていることがわかります。車を降りると芝生の上にピロティを持ち上げる巨大な柱が迎えてくれます。1952年の竣工というから55年前の住まいですが、古さまったく感じさせません。337戸1600人が生活し、中には商店もあり、最上階には幼稚園、屋上には野外劇場やプールなどもそろっていてひとつの町といった感じです。
「醸造蔵」設計譚
忘年会の季節となり酒に親しむ機会が多くなる年末にちなんだ話題を一つ。世間には様々な専門分野の雑誌があり、ここで紹介する「醸界春秋」は神戸市灘にある雑誌社が発行する酒専門の月刊誌です。酒にまつわる情報やエッセイ、研究などを紹介し現在112号を数える「飲んで酔境、読んで教養」というバラエティー豊かな雑誌です。
その中に「醸造家と建築」という題名で神戸女学院大学の川島智生(ともお)先生が連載を続けています。古来、町の中で大工の棟梁により創り続けられていた酒蔵と、酒造メーカーが建築する近代的な酒造工場のはざまにあって、建築史的に取り上げられることが少なかった「醸造蔵」にスポットを当ててその系譜を丹念に読み解いている建築史家です。
免震ことはじめ
鎌倉大仏の寺として知られる長谷の高徳院は、本堂、回廊、客殿の設計を担当した当事務所ゆかりの寺です。あまり知られていないことですが、その大仏は昭和36年(1961)に大改修が行われました。
建長4年(1452)に建造が開始され、室町時代の大津波で大仏殿が流されて以来露座となった大仏(阿弥陀如来坐像)は高さ12.3m総重量121トンの金剛坐像です。大正12年(1923)年には関東大震災を受け、頭と頸の部分にクラックが入りさらに大地震が来れば倒壊の恐れがありました。そこで1961年当時の文部省文化財保護委員会(関野克博士)より、法隆寺・法輪寺などの収蔵庫の設計を行っていた当事務所に設計の依頼がありました。
「都市に歴史」
8月30日都庁にて夜までの会議を終え外に出ると、庁舎が五色の照明で彩られていました。この日の夕方オリンピック誘致の国内候補地が東京に決定されたとのことでした。計画ではメインスタジアムを晴海に、その周辺に選手村やプレスセンターをつくるもので、TVの画面からも昭和36年の東京オリンピックを懐かしみ、期待する声が多いようでした。
実はその遥か前に東京で「幻のオリンピック」そして「幻の万国博覧会」があったことを知る人は少ないでしょう。昭和15(1940)年の皇紀紀元2600年を祝う万国博覧会が計画され、会場には昭和初期に埋め立てられた月島(現在の晴海・豊洲)と横浜が選ばれました。東京では地下鉄の延伸が計画され、勝鬨橋も完成を迎えようとしていた頃です。
一方、第12回オリンピックは昭和11年のベルリン会議で決定され、東京市はそれを受けて臨時建築部を設け現在の駒沢公園をはじめとすると市内に競技施設を設計しました。この時、選手村担当となったのが東京帝大建築学科を卒業したばかりの入江雄太郎でした。