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IMA コラム

Vol.02「開発途上国に役立つ日本の二大新都市開発プロジェクトの研究」

カテゴリ: 都市 作成日:2012年07月19日(木)

―開発途上国の国土づくりに役立つという新たな視点に立って
「多摩ニュータウン」と「筑波研究学園都市」を総括します―

 

情報化社会が世界の隅々にまで浸透し、「アラブの春」に象徴される民主化要求運動が情報化の波に乗って世界に伝播していますが、長年に亙る民主化運動が続いていたミャンマーでも、民主化に向けて経済制裁の解除が進み、国際社会への復帰を期待する報道が日増しに紙面を賑わせています。そんな中で、今年の3月4日から9日、ミャンマー連邦共和国の建設省副大臣はじめ7名の視察団が来日し、入江三宅設計事務所は国連ハビタット福岡本部ともに視察地の案内役等を務めました。

3月6・7日の二日間は、日本の代表的な新都市開発プロジェクトである「筑波研究学園都市(面積;約2,700ha 計画人口;10万人)」と「多摩ニュータウン(面積;約3,000ha 計画人口;30万人)」を案内しましたが、二つのプロジェクトのあゆみをまとめ『二都物語』と名づけたパンフレット風の参考資料を視察メンバーに渡しました。同時進行で取り組んだ性格が異なる二つの新都市開発のスタートから現在までのあゆみを、世の中の出来事を思い起こしながら辿ったもので、国の民主化と経済の成長・国民生活の向上を目指して国土の開発に取り組もうとしているミャンマーの姿を、日本が戦後復興期から経済成長期に向かった時代に重ね合わせ、サブタイトルには「開発途上国に役立つ日本の二大新都市開発プロジェクト」と謳ってあります。

この研究はサブタイトルに込めた思いをさらに深め、開発途上国の国づくりに本当に役立つ日本の技術協力を追及しようとするものです。『二都物語』の中の年表「新都市開発プロジェクトのあゆみ」で、「多摩ニュータウン」と「筑波研究学園都市」の事業の流れについてその概略を辿りながら、今後の取り組みについて解説します。


2.二大プロジェクトがスタートした時代~80年代半ば迄

首都圏勤労者のための緊急的な住宅供給⇒人口10万人達成(多摩)
技術立国日本の研究開発を担う拠点開発⇒科学万博の開催 (筑波)


技術立国日本の研究開発を担う拠点開発⇒科学万博の開催 (筑波経済の成長期に向かって産業構造の大転換による都市部での雇用の増大、農村部から大都市への人口の大量流入が進む時代に、連鎖的に開発を進めて「地域の均衡ある発展」を図ることを基本目標にした高度成長経済移行期の「拠点開発構想」が日本最初の「全国総合開発計画」(一全総)が閣議決定され(1962)、その後、高度経済成長期の「大規模プロジェクト構想」による広域交通ネットワークの整備、国土利用の偏在の是正、過密過疎・地域格差の解消を目指した「新全国総合開発計画」(二全総・1969)へと移行・展開して行きます。そのような時代背景の中で、「一全総」の拠点開発構想と「二全総」の大規模プロジェクト構想を先導的に実践するプロジェクトとして、日本の代表的な新都市開発プロジェクトである首都圏西部の「多摩ニュータウン」と首都圏北東部の「筑波研究学園都市」が、ほぼ同時期にスタートしました。

 

1963年に大規模な住宅宅地開発事業を推進するための法律として「新住宅市街地開発法」が制定され(1963)、「多摩ニュータウン」(1966-2006)は、新住宅市街地開発事業と土地区画整理事業を組み合わせた事業手法によって、「筑波研究学園都市」(1968-1999)は、同二事業に「一団地の官公庁施設事業」を加え、さらに1970年には「筑波研究学園都市建設法」を制定し事業が進められました。

「多摩ニュータウン」は、「ニュータウン」の名が示すとおり自立した新しいまちづくりを構想していましたが、開発当初の最大の使命は、日本住宅公団(現UR都市機構)の設立目的にある住宅に困窮する首都圏の勤労者のために耐火構造の集合住宅を大量に供給することにありました。郊外部のスプロール防止の役割を担い、緊急的な対応策として大規模開発事業をさせたスタートさせた「多摩ニュータウン」は、郊外ベッドタウンのイメージが強く、交通利便性の向上を図るため「住まい(NT)」と「職場(都心)」を結ぶ広域交通インフラ(京王相模原線・小田急多摩線)の整備促進に取り組みました。
④事業開始5年目(1971)に最初の入居が始まります。(諏訪・永山・愛宕地区 2,690戸)

鉄道開通の年(1974)に国が一世帯一住宅達成を発表し、日本の住宅供給は量から質の時代へと移行、その後の「多摩ニュータウン」は新たな時代のニーズに対応した多様な住宅・宅地の供給の展開が図られて行くことになります。

 当初賃貸供給が主流だった住宅の賃分比率は次第に分譲供給にシフトされていきました。

「筑波研究学園都市」は、東京の過密解消と科学技術振興・高等教育の充実を図るため、技術立国日本の研究開発を担う複合都市づくりを目指しました。国立の試験研究所等の移転(1972年にスタート)と、東京教育大学移転による新大学の創設に取り組み(1973年に筑波大学開学)、大学・研究施設で働く人たちのための公務員住宅の供給を並行させ、職住近接の街づくりを推進しました。(公務員住宅の入居開始は多摩ニュータウンと同年の1971年 花室地区142戸)。
事業開始12年を経て移転36機関の移転完了(1980)後は、学園都市を取り囲むように計画された工業団地が次々と建設され、企業誘致による「産業の導入」が展開、1982年の常磐自動車道の開通に合わせて、東京駅からの高速バスも運行を開始しました。

 ※東光台研究団地 (筑波西部・筑波北部)工業団地 つくばテクノパーク(豊里・大穂・桜)80年代は、「多摩ニュータウン」「筑波研究学園都市」ともに、交通インフラの整備やセンターゾーンの充実が図られた時代でした。主要なセンター施設の形成を「多摩」・「筑波」比較しながら辿ってみると、センター交通広場(多摩1980・筑波1985)、文化施設のオープン(つくばセンタービル1983年・パルテノン多摩1987年)、百貨店のオープン(筑波1985年・多摩1989年)、地域冷暖房システム・真空集塵システム等の新都市施設は、共に1982~83年に稼動開始しています。「多摩ニュータウン」は1981年に事業開始15年・入居開始10年の記念イベント「ファインコミュニティフェア」を開催、そして1985年、「筑波研究学園都市」では「科学万博」が開催されました。

3.80年代半ば~現在・21世紀のまちづくり
複合多機能都市への転換⇒地域ネットワーク・ニュータウン再生(多摩)
「つくば市」の誕生⇒つくばエクスプレス・プロジェクト(筑波)

「多摩ニュータウン」がニュータウン人口10万人を超えて迎えた事業の折り返し点の年に、新住宅市街地開発法が改正(1986)され、特定業務施設の導入によってオフィスビル等の建設が可能になり、地元雇用の場が拡大して住宅都市から自立した複合多機能都市への転換(「ベッドタウン」から「ニュータウン」へ)が進められます。そして公的住宅供給は徐々に縮小され、民間住宅供給へのシフトが図られていきました。

「筑波研究学園都市」の地元では、1987年に「つくば市」が誕生、1989年には、「大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法」(通称「宅鉄法」)が定められ、「筑波研究学園都市」と東京都心を結ぶ「常磐新線」の整備と沿線の土地区画整理を同時に行う事業「つくばエクスプレス・プロジェクト」がスタートします。

バブル崩壊(1991)で幕を開けた90年代は、阪神・淡路大震災(1995)にも見舞われて経済社会政策の大きな転換期となり、国土政策・都市開発においても数々の見直しを迫られる一方、「21世紀のまちづくりに向けて」などと謳いながら、未来志向のまちづくりを目指すムードも生まれ始めた時代でもありました。
多摩ニュータウンでは、1991年に東京都立大学が移転した首都大学東京を始めとして、ニュータウン内外に亘って都心部に立地した大学の移転・集積が進み、次第に学園都市としての様相を呈していきます。21世紀に入って多摩ニュータウンの南北軸としての新交通「多摩モノレール」が開通(2000年)、周辺都市との連携・都市間ネットワークの形成の意識が高まっていきます。ニュータウン人口が20万人を超えて、2005年に新住宅市街地開発事業が完了、ニュータウンの最初の入居(1971)エリアでは住宅の建替え事業がスタートしました。

全面建替えの事業を順次展開するか、知恵を絞ったコンバージョン事業が可能か、残された土地への新しい機能導入を如何に図るか、「ニュータウン再生」に向けた取り組みが始まろうとしています。 一方、多摩ニュータウンに先んじて90年代末に新住宅市街地開発事業が完了(1998)した筑波研究学園都市の21世紀のまちづくりは「つくばエクスプレス・プロジェクト」に引継がれ、2005年にはつくばエクスプレスが開通、沿線地区の開発が進み新駅を中心に次々と新しいまちが誕生しています。

 

4.開発途上国の国土づくりに役立つ日本の技術協力の提案
4-1 経済特区としての最先端技術協力

今、安定的な経済成長による雇用の拡大・国民生活の向上を目指しているミャンマーにとって、ODAの完全再開・民間投資促進等による各国の支援・協力は不可欠です。一方「アジア最後の経済フロンティア」などと云われているように、豊富な資源と低廉な労働力に各国が注目し、日本企業も新規投資先として、ミャンマー進出に強い期待を寄せていることも伝えられ、「過熱する投資」を危惧する声すら聞こえるほどです。
 ミャンマーからの視察団が帰国した翌4月、経済特別区として開発計画されていたティラワ港後背地のティラワ・プロジェクト地域(2400ha・ヤンゴン南23km)について、日本がマスタープラン策定に協力する覚書が、両国間で交わされたことが伝えられました。最先端のスマートシティとしての技術協力も検討されているようです。経済特区として開発する意義は、集中的に投資を呼び込み、民間資金を導入した開発会社に開発を委ね、早期の完成を目指すこと、キーワードは、「集中」と「スピード」です。何かと規制の多い法定事業に拠らず、集中的に投資を呼び込み、民間資金を導入した開発会社に開発を委ね、未整備なインフラはODAによる開発を進める、投資促進・産業協力支援の推進・ビジネス環境の整備に強い関心を寄せている日本企業にとっても、経済特区としての開発は望ましいことでしょう。効率優先の時代にマッチした新都市開発スタイルなのかもしれません。


4-2 息の長い技術協力


ティラワ経済特区の2400haという面積は、「筑波研究学園都市」の2,700ha、「多摩ニュータウン」の3,000haに匹敵する規模のプロジェクトです。「筑波研究学園都市」は事業終了まで30年間、「多摩ニュータウン」は40年間の時間をかけました。あえて二大新都市開発プロジェクトのキーワードを挙げれば、時間をかける(かかる?)「長期的視点」と地域の連携と均衡の「広域的視点」。経済特区のキーワードの「スピード」・「集中」とは真逆な言葉です。
 最先端のスマートシティとしての技術協力も必要なのかもしれませんが、ミャンマーはこれから経済成長期を迎えようとしている国です。経済の成長・国民生活の向上を目指した国土形成の総合的・長期的なマスタープログラムづくり、それを先導的かつ段階的に進める地域整備、新都市建設プロジェクトの計画・実施、ミャンマーが本当に求めているのは、そのような「息の長い技術協力」なのではないだろうか? 第2・3章の①~⑥①~⑥のアンダーライン箇所をそれぞれ繋いで読みながら、二つの技術協力を導き出してみました。

 

①~⑥:国土の均衡ある発展を目指した総合的な開発シナリオの提案】

最先端のスマートシティを目指すティラワ経済特別区の開発が、技術立国日本の研究開発を担う複合都市を目指した筑波研究学園都市開発と目的が類似したプロジェクトだと仮定すれば、プロジェクトの推進と同時に求められるのは、周辺地域との一体的整備を図り、国土の均衡ある開発を目指した広域インフラ整備を誘導することでしょう。日本の二大プロジェクトは、高度成長経済移行期の「国土計画(一全総)」を先導すべくスタートし、日本の「国土計画」は現在「五全総」に迄至っています。独立した「国土計画」を持つ国と「社会開発経済計画」に内包されている国に区分して東アジアの国土計画を調査したレポート(2008開構研)によると、ミャンマーは後者に属しています。
 経済成長期に向けての国土全域の利用計画を構想し、拠点開発(筑波研究学園都市のような複合開発都市)と周辺地域との連携、少数民族の高原・山岳地帯も一体に均衡ある発展を目指した地域総合整備計画の立案、新たな時代の広域的交通整備・沿線開発(つくばエクスプレスプロジェクトのような)等、広域的・段階的視点に立った総合的な開発シナリオを提案する「都市計画コンサルタント」的な技術協力が必要とされているのではないでしょうか。

 

①~⑥:先導的な公的住宅モデルの開発・多様な民間住宅誘導プログラムの提案】

安定的な経済成長による雇用の拡大・国民生活の向上を目指しているミャンマーにとって、経済成長期に向かっての住宅供給政策は大切なテーマの一つです。高度経済成長期にスタートし施設立地と公務員住宅の供給を並行させて職住近接の街づくりを推進した研究学園都市、多摩ニュータウンの初期の緊急的な住宅供給策と「住まい(NT)」と「職場(都心)」を結ぶ鉄道の早期開通を目指した取り組みには、いずれも参考にすべき多くの事柄が含まれていると思います。特に多摩ニュータウンが長期間にわたって国民のニーズに合わせて展開した住宅供給システムは参考になるのではないでしょうか。スタート時のミッション(例えば、住宅に困窮する勤労者のための良質かつ低廉な住宅の大量供給)を明確にし、広く国民に普及させる住宅タイプを開発して早期に初期目標(例えば一世帯一住宅)を達成するための先導的な公的住宅供給ステージプランの策定、新たな時代のニーズを想定し豊かな自然環境との調和を図りながら多様な民間住宅供給を誘導する住環境整備プログラムの提案、そのような「建築設計事務所」的な技術協力も重要と考えます。
 ※『二都物語』には、二大プロジェクトの年表と共に、筑波の「公務員住宅計画図」と「周辺工業団地計画図」、多摩の「住宅供給計画変遷図」を載せています。

 

5.再び『二都物語』―まとめ―

 『二都物語』は、日本住宅公団の第1号団地(金岡団地・稲毛団地)が世に出た1956年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と謳い、日本が国連に加盟した年であることから書き起こしています。そしてその年は市川昆監督の旧作の「ビルマの竪琴」が上映された年です。日本とミャンマーとは、ビルマの時代から長い歴史の中での深い交わりがあった国です。諸外国とは違う日本らしく息の長い技術協力の分野があっていいのではないでしょうか。
 『二都物語』は、(株)URリンケージから二つのプロジェクトに関する資料提供等の協力を得て、(株)入江三宅設計事務所都市づくり研究所が作成しました。引き続き「開発途上国に役立つ日本の二大新都市開発プロジェクトの研究」に取り組み、第4章で導き出した二つの技術協力テーマを掘り下げて考えてみます。
 大規模ニュータウン開発の時代は去り、郊外開発はその役割を終えたとされ、UR都市機構のニュータウン部門も店じまいをしようとしています。そんな今、法定事業を終えて歳月が経過した両プロジェクトのあゆみを辿る研究に何か意義があるのか考えるのがフツーかもしれません。
 しかし、本稿で概略触れたように、高度成長経済移行期にスタートした二つの新都市開発プロジェクトは、今、経済の成長期に向かって国土の開発に取り組もうとしている開発途上国が、それぞれの国情にあった開発計画・事業手法を考える際に、参考になる多くの手がかりを有しています。開発途上国の国土づくりに本当に役に立つ日本の技術協力を追求するという新たな視点に立って、二つの新都市開発プロジェクトをあらためて総括してみます。

(都市づくり研究所)

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